2014年3月12日水曜日

奈良の旅人エッセイ-40-

表参道の大坊珈琲店が12月で閉店された。
有名なお店で、私は気後れして二、三度しか行かなかったけれど、おいしい珈琲だった。
珈琲のような焦げ茶色の空間だった。
そういえば、ちょっと冒険して焦げ茶色の帯締と帯揚を買った日も大坊さんで一休みしたのだ。自分の色ではないと思いながら、使いこなせるかなとどきどきしながら包みを少し開けてみた。焦げ茶色の思い出だ。
嗜好品は人の暮らしの一部だから、それを味わう時間と空間がなくなるということは、通われていた方には大変な出来事だろう。
嗜好品ではないけれど、私が好きで通う奈良も無くてはならないものになっている。

正倉院展の時期に京都と奈良に行くようになってかれこれ二十年になるが、年々奈良が好きになる。年の離れた先輩が「毎年、正倉院展に行っているのよ」とおっしゃるのを聞いて、私もそのような人になりたいと憧れたのだ。
最初は京都で過ごす時間が長かった。買い物も食事も観光も、精一杯背伸びして目一杯予定を詰め込む欲張った旅だった。
それが、年々、奈良の比重が高くなり、このあいだはとうとう京都には立ち寄らなかった。
したいことを挙げたら全部奈良だったのだ。

奈良が好きということを説明するのは難しい。でもせっかくエッセイというお題をいただいたから考えてみよう。

朝、 奈良倶楽部さんを出てまずは東大寺に向かう。今日は夕方に正倉院展に行けばいいので、それまで好きにしていいのだ。講堂跡あたりをゆっくりと歩きながら、 奈良の空気に自分をなじませる。二月堂の裏参道沿いの小川は水が多い。前夜の雨のせいだろう。看板につられて流れをじっと見ていたら沢蟹がいるのがわかった。
石段はいいなあと思う。土塀も瓦屋根もいいなあと思う。
二月堂はお水取り以来のことで、前回のことを思い出しながらゆっくりお参りさせていただく。

どうしてこんなに奈良が好きなのか、奈良の何が好きなのかと思いながら、二月堂脇の階段に立ってみた。
瓦屋根、空の青と雲の白、たたなづく青垣、石段、地面、木々の緑。お堂の材や扉の色。鹿と草。はじめはそれらがかたまりでしかなかったが、ただただ立っていると、瓦の一枚一枚や石段の石ひとつひとつが見えてきた。鳥の声や人の話し声も耳に入ってきた。デジタルカメラの画素数が上がるように景色の一つ一つが鮮明に見えてきた。どれもが好ましい。それらをひっくるめて奈良の景色を愛してるんだと思った。お天気も良くて幸せだ。いつもの画素数にもどして階段を下りた。

私の奈良は何色とはひとことでは言えないけれど、二月堂から見る景色が入ることはまちがいない。のどかな広い空。気持ちのいい人々。いつも同じところを回って、また会えたねと挨拶してまわる。

正倉院展に焦がれて毎年通ううちに、奈良そのものがなくてはならないものになっていた。

奈良はおおらか。
何かが、ない。
奈良に身を置くとほっとする。
のびのびする。
何も気にならなくなる。
奈良は私に何も求めない。
ただ、奈良でいてくれる。

神社が空っぽな空間であるように、奈良にも何か空っぽさがあるように思う。
だから、ただいていい。

むかし都だった。
信仰に守られている。
その恩恵に預かっている。

京都で奈良線に乗り換えると心がほどけていくのがわかる。
宇治川を渡るとき、わくわくする。
帰る時、近鉄の車窓から朱雀門に「バイバイ、また来るね」という。

日本橋で運良く柿の葉寿司や御城之口餅が買えた時はものすごくうれしい。この飾らないおいしさこそ奈良だ。いや、もう完成されているので飾ることを必要としないのだ。

ちょっとくたびれたとき、奈良倶楽部さんのブログをのぞきに行く。
するといつもの奈良の景色があって、「ああ、いいなあ」と心が洗われる。
「また行こう、奈良」と思ってちょっと元気が出る。
ありがとう、奈良。私が行くまでまたいつもの感じで待っててほしい。

東京都在住 40代 女性