2014年3月13日木曜日

奈良の旅人エッセイ-41-

私の奈良通いの原点は、高校3年を目前にした春休みにあります。修学旅行ではなく、自由参加の社会科学習旅行というもので、奈良と京都にやって来ました。初日は吉野を団体でめぐり、翌日以降はすべて自由行動という日程でした。吉野見学の日の宿泊は多武峰だったので、次の日は近くの聖林寺を訪ねることになりました。
このとき十一面観音を拝見して、この世にこんなに美しいものがあるのか、と衝撃を受けたのです。西洋かぶれで新し物好きの東京の高校生にとって、それまで仏像はまったく縁遠いものでしたが、静かな山あいのお寺の収蔵庫で対峙した瞬間、その崇高さがすっと心に入ってきたのでした。
明くる日には秋篠寺で伎芸天を拝見し、仏像への思いは決定的なものになりました。その場を立ち去りがたく、お堂を出るときに何度も振り返って、伎芸天のお姿を脳裏に刻もうとしたことを覚えています。
大学に進学してからはみずを得た魚のように頻繁に奈良を訪ね、あちらこちらを見てまわりました。法隆寺夏季大学に通い、奈良公園はもちろんのこと、佐保・佐紀路、西の京、山の辺の道、葛城古道、飛鳥、今井町、室生、五條……。仏像だけではなく、それを安置するお堂、古い町並み、またそれらを包み込む景観全体など、見るものすべてが心に響き、奈良がまるごと宝石箱のように思われました。仏像や神社仏閣ならほかの地域にもありますが、なぜか奈良にだけ磁力を感じるのです。
奈良の風景の魅力として、寺社と自然との共存があげられるように思います。東大寺の境内には小川がくねくねと流れていたり、突然 深い谷が現れたりします。春日大社は御蓋山の傾斜をそのままに建てられたので、回廊の垂木の断面が、長方形ではなく平行四辺形になっていますし、直会殿の屋根を突き破って、イブキの木が伸びています。自然とともに長い歴史を刻み、奈良の風景が育まれてきたのだと感じます。
学生時代から興味を持って追いかけているものに、寺社の行事があります。特に今年1263回を数える東大寺のお水取りや、同じく879回目の春日若宮おん祭は、数々の変遷を経ていながらも古の趣を今に伝えています。その場にいると、眼前にはるか昔の光景が真空パックされて立ち現れてくるような思いがします。
行事や仏像などの文化財が長い間伝えられてきたというのは、それだけでもすばらしいことですが、その背後には伝え守ってきた人々の存在があったことを忘れてはいけないと思います。
神職や僧侶の方々のお話を聞く機会に、神様や仏様、お寺の創建者や中興者に対する深い敬意が感じられることがあります。そのような思いを持った方々が、伝統を次代につなぐ場にいてくださるのは、なんとも心強いことです。
最近は神社のおもしろさに目覚め、奈良通いがますます楽しくなってきました。これまでお寺を中心に奈良を見てきましたが、そこに神社という視点が加わると、また新たな眺望が開けてくるのです。そして、奈良は神仏習合の都であったのだと深く実感させられます。
何度通っても発見があるのが奈良のすばらしいところだと思います。毎回小さな発見をして、満ち足りた気分で奈良を後にします。何度味わってもおいしい。このような場所はなかなかないのではないでしょうか。

東京都在住 K.N.様 女性