2014年3月5日水曜日

奈良の旅人エッセイ-33-「私のお気に入りの奈良」

「私のお気に入りの奈良」

堺市に住む友人夫婦は70歳代、私たち夫婦は60歳代だ。
若いときは彼女一人でイタリア、フランスやトルコに旅行していた友人は 最近、奈良くらいの距離が体にちょうどいいと言う。
これからはご主人と一緒に「あまり欲張らずにゆっくり時間を過ごせる場所を探しているの」とおっしゃる。

2011年3月。二月堂では1260回目のお水取りがはじまっていた。
そのさなかの11日、あの東日本大震災と原発の事故が起き、日本中が沈没したかのようになった。
その次の日の夜、お松明の開始前に東大寺の北河原公敬管長がマイクで異例の呼びかけをされたという。いたたまれずにお水取りに出かけた家人が聞いて興奮して帰ってきた。
満行を迎える14日の夜、今度は二人で二月堂の下に立っていた。
北河原管長は広場を埋め尽くした人々に大震災の犠牲者に祈りをささげようと静かな口調で呼びかけられた。次に被災者のためにめいめいが何をできるか考えようとおっしゃった。最後に一人ひとりがそれぞれの場で本分をつくそうと話された。計り知れない心の傷を受けた直後、今こそ仏さまにすがりたい気持ちでいっぱいだった。
心に染み込むお言葉を居合わせた人々は素直に聞いていたと思う。
この話をしたら友人夫妻はぜひお水取りに行きたいと言い、次の年の3月5日、人出が少なそうな日を選んで初めて泊りがけでやってきた。二月堂の下、遠敷社のすぐ横で友人と私たち夫婦の四人が二時間くらいお松明が上がるのを待っていた。少し前から雨が落ちてきたけど気温は季節にしては高めだった。待っている間、寒く感じなかったのだから。雨傘がちょうど遠敷社の柵に引っ掛けられて「特等席だね。」と子供みたいに喜んではしゃいでいたのを覚えている。
午後7時、二月堂に続く登り廊の通路にはピンと張りつめた空気が漂った。
パチパチパチと一気に燃え上がった松明を童子が肩に担ぎ回廊を上っていく、その後には練行衆が続く。登り廊を上った松明が舞台へと進むと 広場を埋めた参拝者からウヮーとどよめきが湧き上がった。しかしお祭りではないのだ。 
ざわめきも一瞬にたち消え全体が祈りに包まれるように感じた。何と荘厳な時間だろう。友人たちも押し黙ったままだった。
薄暗い道を今晩の宿に向かいながら「来てよかったわ」と何度も感謝された。

昨年暮れにも一泊で奈良にお誘いした。4人で二月堂の舞台に上がってみた。空はどこまでも続いている。その日は生駒から大阪あたりまでよく見えた。澄んだ空気を吸い込んで手を合わせると心が洗われるようで清々しい。
これからの人生をどのように過ごしていこうかと考えているのか、それぞれ遠くの景色を見つめていた。全員が老後の不安も感じ始めている…。
二月堂から見る我が家は奈良市内だが京都との境にあって、歩いてちょうど10000歩の距離だ。予定のない日の午後の散歩コースとして楽しんでいる。
二月堂は祈りを通じて自分を見つめ直す場所かもしれない。今度、初めてそう思った。

奈良県在住 S.T.様 60代 女性