2014年2月11日火曜日

奈良の旅人エッセイ-11-「お水取りへ…終われない旅」

「お水取りへ…終われない旅」

 「来年こそ、お水取りに行く!」数年前の暮れ、街を歩いていてふっと湧いた思い。そして瞬時に決心し、友人を誘っていた…結婚して35年、初めて家族に相談も無く決めてしまった自分だけの旅行だった。
『奈良に春を告げるお水取り』それは、わたしの誕生日の夜にお決まりのニュースだった。「いつか、一度でいいから行きたい」と願っていた。迷いのなかに居た若い頃も、家を空けることなど考えられない子育ての期間にも、思いを馳せては胸ときめかせてきた。
翌年3月、わたしは還暦を奈良のホテルで迎えた。爽やかとはいえない目覚め、前夜初めて体感したお松明と声明が、夢うつつに心を騒がせていたのだ。意志をもったような火の粉と幾重にもうねる渦のような祈りの聲…それは、自分の中に収まりきれないほど大きく不可解なものだった。でも「これが最初で最後のお水取り」そう思い定めて、積年の望みであったお水取りへの旅は終わった。
なのに、わたしはそれから毎年のようにひとりで奈良に通っている。行く度に出合いに恵まれ、古都の今昔を覗き、そして届かない何かに心を残す。とりわけお水取りにつながる巡り合いが重なり、その深さに惹かれて一生一度では済まされない旅になっている。
1300 年祭の奈良を訪れた時の宿で、廊下の天井にお松明に用いられたという竹を見つけた。少しの知識を得た今思えば、根付きのそれは12日の籠松明であった。その際、その竹を奉納している講という存在を初めて聞いた。それまで、そのような働きに思いが及ぶことが皆無だったので、とても心動かされた。今この時を生きている人たちがお水取りを支えている!…思い出の引き出しに納めたお水取りが、生彩を放って眼の前に現れたような瞬間だった。次の年は十一面観音を巡った旅の参拝先で『二月堂竹送り復活の地』という碑を目にし、その偶然に喜びながら、田園風景の中に講の人々の姿を想像した。
お水取りのことをもっと知りたい…そんな気持ちが高まっていた頃、有難いことに東大寺のお坊様から、お水取りが懺悔と祈りの法会であることを直接伺い、装束や持物などに接する機会に恵まれた。この時、お水取りに一番近いお宿と奈良旅の道しるべのような人たちとの幸せな巡り合いもあったのだった。
そして平成25年、4日間もお水取りに参ることができた。東日本大震災の事にふれた管長さんのお話から、この法会が1260年余りも、人々の悲しみや苦しみに寄り添って来たことが実感され、有難い気持ちに満たされた。出来る限り二月堂に赴いて様々な行法を拝見したが、初めての時と同様に心がざわざわし、湧きあがる思いを言葉にすることも難しい。強いて言えば、今のわたしにとってお水取りは「感謝」であり「希望」、だろうか?
お水取りへ、つながっていく人たちへ、わたしの旅はまだ始まったばかりだ。

栃木県在住 N.H.様 60代 女性